仕事帰りの電車、スマホでSNSを見ていると、タイムラインにある新作ゲームのプロモーション映像が流れてきた。

息をのむような美しいグラフィック、絶賛する先行レビュー、そして「本日発売!」の文字。

気づけば私は、親指一本でオンラインストアの「購入」ボタンをタップしていた。

「よし、これで週末の楽しみは確保したぞ」

そう満足感に浸りながら帰宅する。しかし、自室のデスクに座って画面を開いた私がまずやったのは、新作のダウンロードではない。仕事のチャットツールの確認と、YouTubeで「ゲームの解説動画」を2本ほど眺めることだった。気づけば時計の針は深夜1時を回っている。

「……よし、明日から本気でやろう」

そうしてまた、私のライブラリに未開封の「積みゲー」が一つ追加された。

資金力と時間、そして「脳の省エネモード」

学生の頃、私たちは「時間」の富豪だった。

お金がなくて新しいゲームが買えなくても、1本のゲームを文字通り擦り切れるまで遊び尽くした。隠しダンジョンを制覇し、2周目、3周目をプレイし、攻略情報を隅々まで読み漁った。あの頃、手に入らないゲームへの渇望感こそが、私たちの原動力だった。

社会人になった今、状況は真逆だ。

フルプライスの大作ゲームを数本買ったところで、生活が傾くことはない。ハードウェアも最新のものを揃えられる。しかし、圧倒的に「時間」と「精神的余裕」が足りない。

ここで面白い現象が起きる。

私たちは、「ゲームをプレイする時間はないのに、ゲームを買うことだけはやめられない」のだ。

なぜ、遊ばないと分かっている(あるいは、すぐには遊べない)ゲームを買い込んでしまうのか。そこには、社会人ゲーマー特有の、切なくも切実な葛藤がある。

私たちが「積みゲー」を買い続ける3つの心理

1. 発売日の「お祭り」に、せめてお金だけでも参加したい

SNSでトレンド入りし、世界中のゲーマーが盛り上がっている。その輪の中に、どうしても入りたいのだ。たとえ自分が今夜プレイできなくても、「購入履歴」という入場券を持っているだけで、その熱狂の一端に触れているような安心感が得られる。

2. 「未来の自由な自分」への投資

ゲームを買う瞬間、私たちは無意識に「これを休日に時間を忘れて全力で楽しんでいる、未来の幸せな自分」の幻影を見ている。つまり、私たちはゲームそのものだけでなく、「ゲームを心から楽しめるはずの、ストレスフリーな時間」を買いに行っているのかもしれない。

3. 「動画で満足してしまう」脳の衰え

悲しいかな、平日の夜に複雑なシステムや重厚なストーリーを理解するだけのエネルギーが脳に残っていない。結果として、「自分でコントローラーを握る」というカロリーの高い行為を避け、他人が楽しそうにプレイしている配信動画を布団の中で眺めて満足してしまう。ゲームは買った、ストーリーも知っている、でも自分のセーブデータは「最初から」のまま。

「積むこと」は悪じゃない。大人のゲーマーの新しい嗜み方

以前の私は、増えていく未開封のゲームを見ては「また無駄遣いをしてしまった」「買ったのにやらないなんて、ゲーマー失格だ」と、小さな罪悪感を抱えていた。

しかし、ある日気づいた。

本棚に読み切れない本を並べる「積読(つんどく)」が文化として認められているなら、「積みゲー」だって大人の立派な嗜みではないか、と。

デジタルストアのライブラリに、ズラリと並んだ名作たちのアイコン。それらを眺めるだけでも、「いつでもあの世界に旅立てるんだ」という、社会人の過酷な日常を生き抜くための「心の安全弁」になってくれている。

私たちが買っているのは、ゲームソフトというデータだけではない。

「いつか時間ができたら、これを絶対に遊ぶんだ」という、未来へのささやかなワクワク感なのだ。

まとめ:いつか来る「その日」のために、私は今日もゲームを積む

確かに、私のライブラリにはクリアマークのつかないゲームが何十本と眠っている。

それでも私は、来月発売されるあの大作も、きっと発売日に予約して買うだろう。

いいじゃないか、それで。

平日は仕事でボロボロになりながらも、「週末になれば、あの世界が待っている(かもしれない)」と思えるだけで、私たちの足取りは少し軽くなるのだから。

積みゲーの一山一山は、あなたが社会人として日々戦っている勲章のようなもの。

いつか奇跡的に訪れる「何もない、最高の3連休」のために、私たちは今夜も、安心して新しい冒険を積み上げていこう。